林國(guó)本
このところ、北京の書(shū)店マニア、本好きの間で非常に人気のあった書(shū)店が次々に廃業(yè)している。當(dāng)初は一部メディアの隅っこの記事に過(guò)ぎなかったが、これは時(shí)の流れだと感じている。その後、テレビの対談番組でも取り上げられるようになったので、やはり一部の人たちにとっては、「ひとつの時(shí)代が過(guò)ぎ去った」と言える出來(lái)事であったらしい。
私も本好きの部類に屬する人間だが、しかし、私は「來(lái)るものが來(lái)た」という感想で、時(shí)の流れというものに従う考え方を変えることはなかった。
テレビの対談番組のキャスターとゲストは、こうした書(shū)店で好きな本を買(mǎi)っていた世代らしいので、やはり何らかの形で殘せないものかという気持ちをあらわにしていた。しかし、私はジャーナリズムの一角で暮らしている人間として、今の小學(xué)生たちの暮らしぶりや「読書(shū)習(xí)慣」をじっくり見(jiàn)ていると、もうこうした書(shū)店で本を買(mǎi)ったり、立ち見(jiàn)をする時(shí)代は完全に過(guò)ぎ去りつつある、と実感することになっている。
最近の小學(xué)生たちは、もう完全にデジタル人間となっており、われわれの世代とは感覚の上でもまったく違ったものを持っている。私は今でもジャーナリズムの世界の一角で楽しんでいるが、しかし、それもデジタル化した仕事の一プロセスを喜んでまかされているのであり、私はそれを存分に楽しんでいる。このプロセスは、永遠(yuǎn)にゼロになることはないと思うが、しかし、若い頃のようにフォワード、フルバックやゴールキーパーなどのポストをこなすオールラウンドプレーヤーの夢(mèng)はあっさり捨てることによって、希少性のある役柄、私にしかできないと一応他の人たちに言われているものを手にすることを目指したまでのことである。
日本のメディアなどでも、紙媒體と電子書(shū)籍の棲み分けが語(yǔ)られ、その比率についてもいろいろな説が述べられているが、私はそのうちに電子書(shū)籍が九割以上の比率を占めることになると見(jiàn)ている。今の子供たちは、學(xué)校の宿題さえデジタル化した形で先生から家庭に発信されている。つまり、産業(yè)革命をはるかに超える変化が起こりつつあるのだ。こうした大きな変化の中で、民営の書(shū)店が生き延びていくことは不可能と言ってよい。まず、家賃、電気代などの費(fèi)用が払えなくなる。そのうえ、ネット書(shū)店で割引された本を宅急便ですぐ入手できるご時(shí)世である。著者との觸れ合いのサロンなどさまざまな企畫(huà)で生き殘りをかけてきた店主も、ついにギブアップしてしまったというのが現(xiàn)実であろう。