95年に上海へ赴任した于強(qiáng)さんは、仕事に追われる中で、いったん創(chuàng)作を中斷して英気を養(yǎng)い、創(chuàng)作のレベルを高めるため、影響力を持つ文學(xué)作品の研究に打ち込みつつ新しい素材を模索していた。やがて、上海の中日混血児である朱家平さんから、無(wú)情な日本の実父に筆誅を加え、正義を取り戻してくれと頼み込む手紙が寄せられた。嘉定の朱さんの家へ何度も出向いて取材する中で、中日混血児の血の滲むような涙の訴えが再び于強(qiáng)さんの創(chuàng)作意欲とインスピレーションを呼び覚ました。朱家平さんの願(yuàn)いを果たし、日本の対中國(guó)侵略戦爭(zhēng)が殘した影を暴き出すため、于強(qiáng)さんは胸いっぱいの情熱を傾け、わずかな余暇を利用して40萬(wàn)字の長(zhǎng)編小説『櫻花璀璨』を完成させた。中日文化交流に長(zhǎng)く攜わってきた彼は交友関係も広く、數(shù)十回も訪日して日本のあちこちを旅しているため、小説に登場(chǎng)する人物や事物の多くにはモデルがあり、人物や情景が生き生きとリアルに描かれている。この小説が06年秋に登場(chǎng)すると又もや中國(guó)國(guó)內(nèi)で各界の反響を呼び、多くの新聞、雑誌が取り上げ、各地の放送局がこれを伝えるとともに、映像會(huì)社もこの作品の映像化のために現(xiàn)在交渉中という。
于強(qiáng)さんは20數(shù)年の間、変わることなく中日文化交流のために大きく貢獻(xiàn)し、両國(guó)の文化界や友好人士を信服させてきた。彼の創(chuàng)作の道のりを概観すると、稱賛されるべき多くのことに気づく。志があれば何事も成し遂げられることを信じてたゆまず努力していること、日本の殘留孤児という弱者に対して私心なく愛(ài)情を注いでいること、何らかの圧力に対しては畏れず果敢に立ち向かっていること、中日を題材とした文學(xué)に希少な境地を提供すべく臨機(jī)応変に創(chuàng)作に勵(lì)んでいること、あっという間に消え去っていく大量の生きた素材を上手に捉えてエキスを取り出していること等々、彼は一歩一歩その足跡を殘し、ごく普通の政府の役人から、中日を題材とした小説作家としての成功の道へと踏み出した。
于強(qiáng)さんはすでに60歳を過(guò)ぎたとはいえ、依然として中日の文化?経済交流などの各分野で精力的に活躍している。80年代末に彼の提唱により創(chuàng)立された中日詩(shī)吟の會(huì)が馬鞍市、上海市で數(shù)十回開(kāi)催され、彼は上海の詩(shī)吟愛(ài)好者を率いて4回日本へ赴き、日本各地の多くの詩(shī)吟の會(huì)が彼と密に連絡(luò)を取り合っており、長(zhǎng)野県の聖風(fēng)流吟道會(huì)が彼を経由して四川地震の被災(zāi)地に義援金を贈(zèng)ったことも最近嬉しく伝え聞いた。また、彼の仲介で馬鞍市に進(jìn)出した日本企業(yè)が4社あることも知った。殘留孤児の友であり、中日両國(guó)の友好交流の架け橋でもある于強(qiáng)さんが中日交流という花園で筆を休めることなく、両國(guó)の世代にわたる友好のためにいっそう多くの新しいページを書(shū)き添えることを心から期待している。
「北京週報(bào)日本語(yǔ)版」より2008年12月11日
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