「これらの磁器のほとんどは、収蔵者とその父親が終戦前に日本の二大中國古美術商である山中商會と繭山龍泉堂から購入したそうだ。當時、一部の重要な磁器は山中商會の主人である山中定次郎氏と直接交渉すれば購入することができた」と語る李移舟氏は、「その後、われわれはこの2つの古美術商が殘した販売記録の中からこれらの磁器に関する記載を見つけた。戦後の昭和28年(1953年)と41年(1966年)に一部の作品は徳川美術館が行った“中國清朝陶磁器名品展”や五島美術館が行った“中國陶磁器名寶展”に出品された。多くの作品は、1953年に日本陶磁協(xié)會が出版した『清朝の陶磁』という書の中で紹介されているが、その後、世に現れたことはなかった」と説明する。
繭山松太郎氏
山中定次郎氏
光緒19年(1894年)、北京へやって來た山中定次郎氏は崇文門內に山中商會の北京支店を開店する。その數年後には繭山松太郎氏が崇文門內麻線胡同44號に龍泉堂の北京支店を開店。これは、日本の骨董界で最も早くに北京で開設された支店であり、主に中國の古い陶磁器を買い付けるための店であった。龍泉堂と山中商會の北京支店は1945年まで、50年の長きにわたってずっと続いた。この期間に彼らは北京、上海などの骨董店から品物を買い付けたほか、最も大口の購入は清代皇室の內務府が挙行する競売に直接參加して行った。
最後の皇帝?溥儀が故宮を出る前の1911年から1924年にかけての十數年間に清代皇室の內務府が不定期に行っていた競売會は維持のために巨額の費用を投じた。競売にかけられる品は清代の皇室に収蔵されてきた磁器や玉、古銅器などの品々で、毎回、200點から300點が出品された。これは、中國の政府筋が行った最も早期の競売會であったかもしれない。當時競売が行われた場所は、紫禁城神武門內の西配殿で、內務府は北京市內で信用情報を持つ骨董商に招待狀を送り、招待狀を受け取った骨董商は國內業(yè)者、外國業(yè)者を問わず、指定された時間に保証金を納めた。當時は図録という言い方はなかったが、競売品のリストは配布しており、「天字磁器」、「地字磁器」、「天字玉器」、「地字玉器」、「古銅」、「堆朱(ついしゅ)類」などといった分類がなされていた。
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