ホーム>>中日両國>>社會 |
日本中國友好協會會長 新段階の日中交流 |
発信時間: 2009-07-19 | チャイナネット |
|
新段階の日中交流 平和で豊かな日中関係を ――日本中國友好協會 長尾光之會長に聞く―― 日本中國友好協會の會長で、元福島大學教授。1942年、魯迅とゆかりのある仙臺に生まれました。「幼少の時、北京で暮らしていたことが、どこか心に殘っていた」こともあり、高校から中國語を學びました。 1962年、大學に進學した長尾氏は、3000人中たった5人しかいなかった、という中國語を専攻します。中國語の言語學と文學の研究を志し、「四六時中、中國とかかわりのある」人生を送ってきました。 1960年代の「中國に行きたくても行けなかった」時代を経て、今、観光や仕事などを通して、直接觸れ合えるチャンスが増えたことを喜んでいます。6月末、長尾氏は北京で行われるシンポジウムに出席するため訪中。そして、一行4人を率い、CRIを訪れました。日本各地に1萬1千人の會員がいる協會の長として、これまでの歩みをどのように振り返り、また、中日交流の現狀をどのように見ているのでしょうか。
――今回は、金融危機に関するシンポジウム參加のため、訪中したようですね。 今回は、中國國際交流協會が主催する「國際金融危機下における社會福祉と就職保障」の座談會が開かれ、招待を受け、それに參加しました。參加者はいずれも現在の日本と中國で、経済學研究の第一線に立っている方々で、たいへん広く、深い話ができました。 ――議論の中で、一番印象に殘ったことは? 私は経済學が専門ではないですが、議論を通して勉強になりました。今回の金融危機が起きた一番の原因は、アメリカの金が金を生む金融政策が破綻して、それが全世界に影響を及ぼしたことです。それに比べて、中國、日本、アジアは製造業や農業も行われていて、これからはアジアの時代だと共感しました。 ――ところで、日本中國友好協會として、これまで、どのような気持ちで中國と付き合ってきましたか。 協會が1950年に発足以來、一番モットーとしているのは、中國文化の日本への紹介、そして、中國と再び戦爭しないという平和の課題です。私たちとして、「日中友好運動は、自主的な、日本人の立場に立った友好運動でなければならない」という原則のもとに、一貫した活動として続けてきました。 改革開放後、日本に來られた中國人がたいへん増えており、貿易なども盛んになっています。今は、これまでの時代と違って、直接交流が増えており、日本人と中國人との付き合いが、新段階に入ったと言えます。(寫真は日本中國友好協會刊行の出版物)
――両國の友好関係の構築にとって、直接交流の意義をどのように見ていますか。 これはつまり、今までにない深いお付き合いができるということです。日中の國交回復は1972年で、中國の改革開放は1978年以降のことでした。日本人と中國人が直接顔をあわせて話ができるようになったのは、1980年代になってからのことです。今、我々協會がやっている講座は、講師のほとんどが中國人の留學生です。これは以前には考えられなかったことです。 それから、仕事や留學などで、中國の方が日本人の地域の中に大勢住むようになりました。同じように、日本人が中國に行って、日本語の教師をしたり、仕事で滯在したりしている人の數も、以前と比べ物にならないぐらい増えています。 そうした中で、だんだん人間関係が深まっているわけですが、もちろん、難しい問題もあります。しかし、日本と中國の友好にとって、全體的に言うと、プラスなことになっていると思います。 ――これを背景に、中國との交流の仕方にも変化が見られますか。 日本中國友好協會の本部としては、この10年くらいは、中日友好協會、國際交流協會等々の有力団體との付き合いが深くなりつつあります。北京で話し合いをしたり、全國の視察をしたり、あるいは、平和関係の行事に參加したりするようになりました。たとえば、秋に瀋陽で行われる9?18集會などのイベントにも參加するようになり、以前よりも盛んに交流をするようになりました。 このほか、全國の県連や支部の関係者も中國に行き、東北地方などをまわる「平和の旅」、あるいは、普通の観光旅行を通して、中國の文化と深く觸れ合う活動を盛んに行っています。 ――長尾會長と中國とのかかわりは? 私は1942年、仙臺に生まれました。2歳(1944年)の時、父親の仕事で北京へ行き、日本が敗戦した翌年(1946年)、日本に戻ってきました。當時の日本は、たいへんな戦爭の慘禍が殘っていました。 幼少の時、中國で過ごしていたことが、どこか心に殘っていたようで、高校時代、先生がドイツ語や中國語関連のゼミを開いたのをきっかけに、私は中國語を選択しました。 1962年、大學に進學した時は、中國のことをテーマにして勉強しようと決めました。當時は、ほとんどの學生はドイツ語やフランス語を専攻していましたが、私は英語と中國語を選びました。ちなみに、當時、私の大學には學生が3000人いましたが、そのうち、中國語を専攻した人はわずか5名でした。お蔭様で、卻って中身の濃い授業ができました(笑)。 大學で中國語を2年學んでから、中國語文學部に進學し、中國語を言語學という面から研究することに、テーマを定めました。また、1964年に日本中國友好協會に入會して、今に至っています。 ――ということは、協會に入ってすでに45年になりますが、この間、どのように振り返りますか。 世界も激動していますが、中國を巡る狀況も、私の大學生以來の45年で、大きく変わった面があると思います。10年間続いた文化大革命の時代もあれば、1972年の日中國交回復もありました。國交回復に向かって、私たちも様々な団體とともに、日中友好運動3000萬署名運動を展開し、この運動に私もだいぶ熱心に參加しました。そのため、國交回復のニュースを聞き、たいへん感動しました。 私は1960年代、中國語を學んでいた頃、中國に行こうと思っても、それが不可能な時代でした。その中で、1980年代、改革開放以降、様々な交流が一層盛んになり、中國に行くことが簡単にかなえられる時代になりました。これからも日中友好運動がますます発展していくだろうと思っています。 ――今後、地域としての結束が一層求められている中、どのような中日関係が求められていますか。 われわれは創立以來、一貫して、自主的な、民主的な日中友好運動を唱えています。とくに、日中関係については、中國との間とも一定の距離をとって、日本人の立場にたっての運動を進めてまいりました。 こういう風に交流が盛んになって、両國間の交流が広く、深くなっている事態の下で、21世紀も來年で10年目になります。日本と中國を含む、アジアは大きな、明るい將來があると思います。私たちは平和で豊かな日本と中國との関係を作り上げていくよう、様々な面で努力していく必要があると思います。 ――最後に、新中國成立60周年へのメッセージをお願いいたします。 第二次世界大戦が1945年に終わったわけですが、その前までは、中國は外國勢力が多數入っていました。アヘン戦爭の頃から半植民地狀態が続いていました。そういう中で、まず第一、1945年8月15日に中國が勝利したことが、一つの大きなポイントです。その後、1949年、中華人民共和國が成立したことは、さらに、世界史的な大きな出來事だったと思います。 新中國が成立して60年間、様々なことがありましたが、基本的には統一を守り、現在は経済的にも、民生的にも非常に力が強くなって、世界第三の経済力を持つようになりました。 この60年、アジアにおける中國の位置が高まりつつあり、今後もさらに高まっていくだろうと思っています。これからも、中國はますます発展していくだろうと思います。 【長尾光之氏プロフィール】
(聞き手:王小燕)
「中國國際放送局 日本語版」より 2009年7月19日 |
|