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郭沫若とゆかりの地 |
発信時間: 2009-08-19 | チャイナネット |
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初めての上京 1912年の春節(舊正月)が過ぎたばかりのころ、辛亥革命の民権運動が高まっていた真っ只中の郭沫若は悔いても余りある、ある婚姻に煩わされていた。當時、20歳にもなっていない彼は、親孝行のため、父母が伝統的な作法に基づいて選んだ全く字も知らない纏足の女性と結婚した。郭沫若は結婚後五日目に、居たたまれなくなって家を離れ、四川省の省都?成都にもどり、學業をつづけた。 翌年中學を卒業した郭沫若は、はるか遠くにある天津陸軍軍醫學校に受験を申し込んだ。思いもよらなかったのは、百人ほどの受験生を待っていたのが荒唐無稽な試験問題で、その學校の教學レベルに疑問を持たざるを得なかった。 郭沫若は思い切って軍醫學校の入學資格を放棄し、北京に行き、兄?郭開文の元に身を寄せた。開文は日本に留學したことのある清の挙人(科挙試験の郷試に合格した人)で、もっとも早く啓蒙思想を故郷の四川省楽山市沙灣鎮にもたらした知識人であり、當時は「川辺経略使代表」という身分で北京に駐在していた。
郭沫若は北京に50日間ほど滯在し、兄とともに四川の同郷の家に間借りした。その人は高等審判庁の審判官で、家は吹帚胡同(橫町)にあった。今は北京市の地図にはないが、およその方角は人民大會堂の北門より北側の長安街上にあたる。そこは建國後の北京市都市建設のとき、最初に取り壊された一連の町である。郭沫若の自伝『初出夔門』の中の描寫と一致し、胡同を出ると中華門前後の宮廷で、前門や大柵欄に近い。郭沫若は吹帚胡同の四合院の南側の部屋で読書をしていた。 12月25日、兄の郭開文は郭沫若を日本に送り、官費の援助のある學校に入學させることにした。翌日の晩、郭沫若は兄がかき集めた半年の生活費をもち、全線が開通したばかりの京奉(北京―瀋陽)鉄道に乗り、瀋陽、丹東を経て朝鮮半島を経て、釜山から船に乗ってさらに東へ向かい、日本での留學生活を始めた。 數年後、日本で醫學を専攻する郭沫若はドイツ語を勉強するかたわら、大量の歐米文學を貪り読んだ。「五?四運動」(1919年)の荒波の下で、時代のリズム、灼熱の心情をもって中國文壇に登場した。彼と日本留學青年たちが結成した「創造社」は、中國現代文學の舞臺で大きな足跡を殘した。 その後の人生を振り返って、郭沫若は自分の成長は當時の兄からの賜物だと言ったが、正にその通りである。 |
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