段非平=聞き手 金色池塘=寫真提供
「日本鬼子」は舊日本軍の軍人を指して使われていた蔑稱であるが、一人の日本人俳優(yōu)の活躍で、近年、テレビドラマに登場するその「日本鬼子」に、中國の若い女性たちが黃色い聲をあげている。8年前、無名だった脇役俳優(yōu)の矢野浩二は、単身、中國のテレビ界に飛び込んだ。彼の演じた日本の軍人はそれまでの悪いだけのステレオタイプのイメージを一掃し、役柄に人間らしさを與えた。リアルで生き生きとした日本の軍人のイメージが、少なからぬ視聴者に認識され、好感をもたれるまでになった。
矢野浩二がこの成功をつかむまでの道は必ずしも順風満帆というわけではない。獨り異國にやって來て、最初はコミュニケーションもおぼつかず、演じられる役もなく、安定した仕事も収入もなかった。さらに、日本の軍人を演じたことで大きなストレスも背負わなくてはならなかった。しかし、矢野浩二はあきらめなかった。実力と根気で、中國で新境地を切り開いたのである。
また、彼の存在そのものも、中國のテレビ界に新たな風を吹き込む存在となった。矢野浩二の中國におけるさまざまな経験から、中國のテレビドラマのこの數(shù)年の変化を読み取ることもできる。
「従來沒看過那麼帥的日本鬼子
(こんな素敵な悪役は初めて)!」(20代、中國人女性)
――2000年、ドラマ『永遠の戀人(原題は「永恒的戀人」)』に出演したのが中國における最初のドラマ出演ということですが、その仕事を引き受けたときのお気持ちはいかがでしたか。
1992年から日本の蕓能界で仕事をするようになり、8年ほど俳優(yōu)(森田健作?現(xiàn)千葉県知事)の付き人をしながら、脇役を演じていました。必死に努力を続けていましたが、なかなか実績はついてきません。だから、変化がほしかったのです。新しいもの、日本にはないものを吸収したい、海外で飛躍したいという思いがありました。そんなとき、當時所屬していた事務所からこのドラマの仕事の話をもらいました。最初、若干の不安は感じました。中國を訪れたことが一度もなかったからです。けれど、それ以上に高ぶる気持ちがありました。海外で演じることができる、望みがかなう、と思ったのです。
――その撮影が終わってから、北京を拠點に活動することを決心したそうですが。
撮影現(xiàn)場で新鮮なものを感じ、役者として、自分の居場所を見つけた気がしました。北京で活動するということは未知の世界ではありましたが、確かなものがないからこそ、可能性があると考えて、將來の発展に期待を抱くことができたのです。中國のドラマの出演に中國語は不可欠ですから、北京で生活するのが、中國語を身につけるための理想的な環(huán)境だということもありました。
――北京で生活を始めたばかりのころは、出演のオファーもなく、異國でたった一人の生活で、諦めようと思ったことはありませんでしたか。あなたを支えてきたものは何でしたか。
諦めようと思ったこともあります。けれど諦めるのはとても簡単なことです。今日でも明日でも、いつでも諦めることはできます。何事も続けることが一番大切です。私は難易度の高い仕事を選ぶのが好きで、難しければ難しいほどやってみたくなり、挑戦したくなります。努力すれば必ず得るものがあると信じています。
『永遠の戀人』の撮影で親しくなったスタッフを頼り、新境地を求めて北京にやってきたものの、聲がかかる仕事といえば抗日ドラマの悪役、日本人の軍人役ばかり。描かれる日本人像に、日本人としての葛藤を抱えながらも、果敢に挑んでいく。
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