日中友好協會沖縄支部 泉川友樹
中國語學習を始めてすでに10年が過ぎた。その間、さまざまな人に出會い、さまざまなことに出合った。
2003年9月、北京の地に降り立ち、1年間の留學生活をスタートさせた。これが初めての留學だった私は、當時ほとんど中國語ができなかった。
それでも、慣れない中國の地で生きていかなければならなかった。生きるためには食べなければならない。北京に到著して2日目の晩、外で夕食を取ろうと思い立ち、學生寮を出て街を歩いてみたが、レストランの看板に書いてある中國語が読めず、どんなものを食べられるか分からないのでなかなか入る気になれなかった。1時間ほど歩いていると、「三元餃子屋」という、當時の私でも読める看板をようやく発見し、そこで食べることにした。
中に入ると、ウエイトレスがすぐにお茶とメニューを持ってきてくれた。だが、ここでまたしても問題発生。メニューが読めない。必死になって自分にも読める字を探し、やっとのことで「家常豆腐」「三鮮餃子」「米飯」の3品を注文することができた。
注文した品が揃い、食べ始めたその時、私の向かいで食事をしていたお婆さんが「暑?C処?吃?怎?那?怪?(ちょっと、何でそんな変な食べ方をしているの?)」と話しかけてきた。後で分かったことだが、中國人にとって餃子とご飯はともに主食で、普通は一緒に食べない。私の様子は、例えて言えばご飯とパンを一緒に食べているようなものだったらしい。
だが、そんなことは當時の私には分かるはずもなく、なぜそんなことを言われているのか全く理解できなかった。「ここで黙ってしまってはダメだ」と思って、下手な中國語で、「我是日本留學生,??到北京。我很喜?中國和中國文化,?多多?照!(私は日本人留學生です、北京に著いたばかりです。私は中國と中國の文化が大好きです、よろしくお願いします)」と答えた。
それを聞いたお婆さんは、私が変な食べ方をしている理由を理解してくれたようだった。また、中國好きの日本人に會えたことを大変喜び、何と自分の食事を私のテーブルまで運んで來て、「一緒に食事をしよう」と誘ってくれた。少々ためらいもあったが、そのお婆さんの笑顔に癒された私は、一緒に夕食を取ることにした。お婆さんの中國語は北京なまりがきつく、ほとんど聞き取れなかったが、「御両親は元気にしてるかい?」とか「これから一年、頑張って勉強するんだよ」と、穏やかな表情で話してくれたことは覚えている。あの夜、お婆さんと食べた餃子とご飯の味は忘れがたく、お婆さんの穏やかな表情は今でもはっきりと心に焼き付いている。
私とお婆さんが分かり合い、美味しい夕食をともにすることができたように、少しの勇気とやさしさを持って相手と接すれば、お互いを理解する「きっかけ」を作ることはできる。そのきっかけからお互いに大きな収穫を得ることができるかどうかは、それぞれの努力次第だろう。そして、収穫を得るために有効かつ必要な手段の一つが、中國語學習(中國人にとっては日本語學習)だと思っている。
私は現在、日中友好を促進する仕事をしている。大學では他の分野を専攻し、中國語は第二外國語にしか過ぎなかった私がこのような仕事をしているのは、私自身が中國語と中國を愛しているということもあるが、それと同じくらいに、多くの中國人や日本人との素晴らしい出會いがあったからでもある。
泉川友樹:
1979年2月生まれ。東京都在住。出身は沖縄県豊見城市。1999年、沖縄國際大學2年次の時に中國語と出會い、學習を始める。2002年、沖縄國際大學文學部社會學科卒業(考古學専攻)。2003年-2004年 人材育成財団の「同時通訳養成プログラム」により中國留學。北京外國語大學で通訳コース修了。2006年-現在 日本國際貿易促進協會に就職。日中両國の経済交流促進事業に従事。
人民中國インターネット版 2011年2月22日