観光バスは南三陸町防災(zāi)対策庁舎前で停車した。防災(zāi)対策庁舎は震災(zāi)前、南三陸町の防災(zāi)指揮センターだった。3階建ての庁舎は今や錆だらけの鉄筋しか殘されておらず、廃墟の中で靜かに佇んでいる。大津波は當(dāng)時(shí)、10數(shù)メートルの庁舎の屋上に避難していた20人弱の職員をさらっていった。
後藤さんはバスを降り、防災(zāi)対策庁舎の廃墟の前で黙禱を捧げた。後藤さんは、「當(dāng)局は防災(zāi)対策庁舎を標(biāo)高數(shù)メートルの、海から近い低地に建設(shè)した。これは歴史の教訓(xùn)をまったく汲み取っていないからだ」と憤りを露わにした。
南三陸町政府は昨年9月、防災(zāi)対策庁舎の廃墟の撤去を決定した。しかしこの決定は、後藤さんを含む多くの現(xiàn)地住民に反対された。最終的に宮城県政府が干渉し、南三陸町に撤去を遅らせるよう求めた。
後藤さんは防災(zāi)対策庁舎を、そして廃墟に集まった観光客を指さし、「あれは被災(zāi)の様子を無(wú)言で語(yǔ)るガイドで、また忘れてしまわないようにと教えている」と語(yǔ)った。
後藤さんの懸念も無(wú)理はない。毎日新聞が10日に発表した調(diào)査結(jié)果によると、被災(zāi)地住民の9割以上が、東日本大震災(zāi)を忘れつつあると回答した。
旅館「観洋」の女將の阿部憲子さんは、「被災(zāi)地ツアー」の提唱者の一人だ。阿部さんは、「被災(zāi)の苦しみを観光の道具にするなと批判する人もいたが、震災(zāi)後に現(xiàn)地の人口が流出するという問(wèn)題が生じた。外の人に來(lái)てもらうことは、南三陸町の存亡を左右すると言える」と説明した。
阿部さんは、「千年に一度もない災(zāi)害を、千載一遇の學(xué)習(xí)のチャンスにして欲しい。この被災(zāi)の現(xiàn)場(chǎng)は、災(zāi)害に対する備えがどれほど重要であるかを、人々に心の底から意識(shí)させる」と述べた。
?中國(guó)網(wǎng)日本語(yǔ)版(チャイナネット)? 2014年3月11日