後琉球王國時代
昔の琉球人の婚禮
1879年、日本と中國が琉球問題についての交渉を開始。中國側(cè)は琉球諸島を3分割し、日本に近い奄美大島を日本の領(lǐng)土、琉球本島及び付近の島々を獨立した琉球王國とし、南部の先島諸島を中國の領(lǐng)土とする案を提示。日本側(cè)は琉球を2分割し、琉球本島及びその北方の島々を日本の領(lǐng)土とし、南部の先島諸島を中國の領(lǐng)土とすることを提案。(交渉では魚釣島の帰屬については觸れなかった)。
1880年9月、中國側(cè)は交渉の最後に妥協(xié)して、?分島?改約案?に署名。日本が提案する方法で琉球を二分するが、清朝皇帝はこの不平等條約への同意を拒み、中國側(cè)代表に日本との交渉の継続を指示。その後、日本側(cè)が去ったため、交渉は決裂。
1882年、天津領(lǐng)事?竹添進一郎が清政府と琉球問題の交渉を再開するが合意には至らず、琉球問題はそのまま日清戦爭まで持ち越される。
1894年‐1895年、日清戦爭の後、敗戦國となった中國は臺灣、澎湖諸島を割譲し、琉球諸島問題については発言権などなかった。以降、琉球諸島が一つの國家であり、中國の藩屬國である事実は忘れ去られる。
1898年、日本は琉球人に兵役を強制。
1901年、最後の琉球國王?尚泰が死去。
1916年、全沖縄教師大會は沖縄の教師に、學校で琉球語を使用した生徒を侮辱的な方法で罰するよう要求。