國家公文書局は17日、公式サイトで「偉大な勝利―中國が降伏文書を受け取る」の第3部「中國の戦場における各地の反撃(上)」を公開した。
第3部の説明によると、1944年から、國際情勢と中日の戦況の変化に基づき、日本軍占領(lǐng)地の後方にいる抗日軍と民衆(zhòng)は中國共産黨に率いられ、華北?華中?華南地域で、敵に向かって積極的に攻勢をしかけた。彼らは、日本軍と傀儡軍を打撃?牽制し、抗日根拠地を拡大し、中國軍の力を拡大し、日本軍と正面から対峙する國民黨軍と連攜し、戦略の中心を遊撃戦から運(yùn)動(dòng)戦へと移し、大規(guī)模攻撃と戦略的反撃の準(zhǔn)備をした。中共中央は1944年1月1日、占領(lǐng)地の後方にいる軍隊(duì)と民衆(zhòng)に向けて、「抗日戦爭の開始から6年半の年月が経過した。(中略)あなた方がいてこそ、中國はソ連や米國、英國などと肩を並べることができた」との勵(lì)ましの新年の祝賀電報(bào)を送った。4月12日、毛沢東は延安の上層幹部會議での報(bào)告で、「我々はいかなる狀況の下でも日本の侵略軍を中國から追い出さなければならない」と宣言した。1944年、各地の抗日根拠地の軍隊(duì)と民衆(zhòng)は2萬回余りにのぼる作戦を?qū)g施し、日本軍?傀儡軍20萬人近くを壊滅させ、県政府所在地20カ所余りを攻略し、1700萬人以上を解放した。この攻撃は1945年の春季?夏季まで続いた。國民黨軍も日本軍との多くの會戦において、巨大な犠牲を払いながら、多くの日本軍を殲滅させ、失った國土の一部を取り戻した。これらの反撃は、日本軍を大きく消耗させ、日本の降伏を早めた。(編集MA)
「人民網(wǎng)日本語版」2014年8月19日