封建社會、封建制度を覆す戦火の中から誕生した新中國は、成立當(dāng)初、國內(nèi)経済がぜい弱で、人々は貧しい生活にあえいでいた。工業(yè)?農(nóng)業(yè)や文化?科學(xué)技術(shù)のレベルはさらに貧窮し非常に立ち遅れた狀態(tài)だった。一方、國際環(huán)境を見れば、米國をはじめとする西側(cè)諸國は、政治的孤立や経済的封鎖、軍事的包囲などの手段を使い、中國共産黨の指導(dǎo)によって人民政権を樹立したばかりの新中國を圧殺しようとしていた。
このような厳しく複雑な情勢に直面し、中國共産黨は毅然として全國各民族の人民を率いて新中國を建設(shè)する重責(zé)を背負(fù)った。1949年から78年まで、30年近くの苦難に満ちた模索とたゆまぬ努力を経て、中國は社會主義制度を確立し、強(qiáng)固にし、発展させた。さらにその後の強(qiáng)大化に向けて、政治や経済、文化、科學(xué)技術(shù)、外交などの分野でしっかりとした基礎(chǔ)を打ち立てた。
新中國成立後、毛沢東(右から2人目)、劉少奇(同3人目)、周恩來(左から2人目)、朱徳(左端)、鄧小平(右端)、陳雲(yún)(左から3人目)ら黨と國家の指導(dǎo)者は全黨?全國人民を率いて社會主義の中國の建設(shè)に勵んだ(新華社)
侵略者に抵抗し國守る戦い
昨年10月19日、中國人民志願軍抗米援朝出國作戦70周年を記念する展覧會が北京で開幕した。1900點(diǎn)余りの展示品と540點(diǎn)余りの歴史的な寫真を見ながら、來場者は國を守るあの戦爭にタイムスリップしたような気分になった。
近代以降、中國は列強(qiáng)による圧迫や戦亂に苦しめられていた。新中國の成立後、中國人民は平和と安定した生活を渇望していたが、1950年6月、米國は朝鮮の內(nèi)戦に武力で干渉し、さらに中朝國境まで戦火は及んだ。この危急のとき、黨中央は朝鮮の黨と政府の要請に応じて抗米援朝(米國に対抗し朝鮮を支援する)の決定を下した。
當(dāng)時、朝鮮に赴き參戦した中國人民志願軍は、武器裝備が舊式で後方支援が弱かったが、直面したのは世界最強(qiáng)の軍事力を誇る米國と、そこに糾合した英仏など十?dāng)?shù)カ國からなるいわゆる「國連軍」だった。
中國と朝鮮の軍民は、この雙方の力の差が大きい現(xiàn)代戦において、2年9カ月にわたる血みどろの戦いを経て、米帝國主義を53年7月に休戦協(xié)定調(diào)印に追い込んだ。
抗米援朝戦爭は、新中國のために平和建設(shè)を進(jìn)める外部環(huán)境を作り出しただけでなく、中國人民の民族の尊厳を守った。まさに當(dāng)時の中國人民志願軍の司令官だった彭徳懐が述べた通り、「抗米援朝が雄弁に証明したように、西側(cè)の侵略者が東洋の海岸に數(shù)門の大砲を據(jù)えれば、一つの國を占領(lǐng)できるという數(shù)百年間続いた時代は永遠(yuǎn)に過去のものとなったのだ」。
平和と尊厳のために19萬7653人の中國人が犠牲になった――爆薬を抱えて敵陣に飛び込んだ楊根思や、敵のトーチカの銃眼を身をていして塞いだ黃継光、味方の位置を知られないために炎に包まれてもびくともしなかった邱少雲(yún)、人民志願軍の第1陣として朝鮮に入り戦死した毛沢東の長男?毛岸英……。これらの黨員烈士の死を恐れない戦闘の意志と犠牲の精神は、今日まで全ての中國人に困難や苦境に打ち勝つ勇気と力を與え続けている。
「人民が主人公の國」を?qū)g現(xiàn)
今年5月、米國のバイデン大統(tǒng)領(lǐng)が演説で、「女性は天(世界)の半分を支えている(3)」という毛沢東の有名な言葉を引用し、ネットで話題になった。この言葉は、まさに新中國の成立間もないころに誕生した。
舊中國では、男尊女卑の封建思想が長い間、女性の解放を妨げていた。50年5月に「婚姻法」が公布され、子の意思を考慮せず親同士が決める封建的な婚姻制度を廃止し、婚姻の自由?一夫一妻?男女平等を基本原則とする新しい制度を?qū)g施した。その後、人々は男女平等の考え方を著実に確立していった。
當(dāng)時、貴州省養(yǎng)龍司郷にある堡子村の女性は、村の集団労働に參加しても、男性の半分以下の報(bào)酬しかもらえなかった。村民委員會の女性擔(dān)當(dāng)主任の易華仙は55年、「男女の同一労働同一賃金(4)」を主張し、村全體の討論を経て、この主張は採択された。現(xiàn)地の女性たちの労働意欲は刺激され、農(nóng)産物の生産量は3割増えたという。毛沢東はそれを知ると主張の普及を提案した上で、「女性は天(世界)の半分を支えている」という名言を言った。
黨の指導(dǎo)の下、社會の他の分野での改革も急速に進(jìn)んだ。
50年6月に「土地改革法」が施行され、地主階級が小作料の形で農(nóng)民を搾取する封建的土地所有制度が廃止され、約3億人の土地を持たないか土地が少ない農(nóng)民には、7億ムー(1ムーは約0?067?)に及ぶ土地が無償で分配された。また國営企業(yè)は、人身を拘束して労働者を搾取する封建的な口入れ屋(賃金労働者に労働をあっせんする手配師)制度を消滅させ、労働組合委員會と従業(yè)員代表會議が従業(yè)員を動員?組織して企業(yè)の管理に參加させた。売春やアヘンの吸飲、賭博などの封建社會の悪弊は、3年前後の取り締まりによってほぼ一掃され、社會の気風(fēng)は一新された。
53年3月、「中華人民共和國全國人民代表大會および地方各級人民代表大會選挙法」が施行され、3億2400萬人が有権者として登録され、中國史上初の全國的な普通選挙に參加した。各地の一線での普通選挙によって選出された地方の人民代表大會の代表は、また1226人の各民族?各階層?各業(yè)界の全人代の代表を選出した。
54年9月、第1期全人代第1回會議が北京で開かれ、討論を経て新中國の最初の憲法が採択された。人民代表大會制度はこれより正式に実施され、無數(shù)の中國人が長期にわたって努力して求めてきた「人民が國の主人公となる」という政治的理想がついに現(xiàn)実のものとなった。
第1期全人代の代表だった陳舜瑤は次のように振り返った。第1期全人代第1回會議の開催當(dāng)時、黨?政府?軍の最高指導(dǎo)者から一般労働者まで、皆が一堂に會して國家の大計(jì)を共に話し合った。これは中國の歴史上かつてなかったことだった。