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改革開放初期の2人の「偶像」 |
発信時間: 2008-04-15 | チャイナネット |
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「文化大革命」が終結して改革開放を迎えるまでの數(shù)年間、全國を震撼させるほどの効果を持った「偶像」は生まれなかった。1960年代の雷鋒、王進喜といった「學習模範式」の「偶像」が引き続きその影響力を発揮し、それは數(shù)世代にもわたり続いた。事情は靜かに変わっていく。70年代末、つまり改革開放の初期、創(chuàng)始的な意義に富んだ2人の「偶像」が世に登場する。
わずか6㎡の小さな部屋。陳景潤はここでゴールドバッハの予測の研究に専心し、苦しい努力を重ねついに世界を震撼させる成果を収める。「文革」が終息したばかりのその「科學の春の日」に、彼は広範な青年が科學へと進むよう激勵する旗印となった。
1978年2月17日、『人民日報』と『光明日報』が、徐遅氏が初めて『人民文學』に発表したルポルタージュ『ゴールドバッハの予想』を転載した。このルポルタージュにより、數(shù)億の中國人は「數(shù)學の王冠を戴く人物」とされた陳景潤のことを知り、彼の事績は中國人を驚かせ、そして勵ました。當時、「文革」の災禍が終わって間もない中國では、科學技術や文化事業(yè)を含め振興が待たれており、まさにこの年に、鄧小平氏が「科學技術も生産力である」と提起。科學の春が訪れる中、「偶像」に感化されて多くの若者が科學技術で國に報いようと溢れる情熱を抱き、科學技術の分野へと勇気を奮い起こしながら身を投じていった。80年代に小學校に入學した筆者ははっきりと覚えているが、當時の多くのクラスメートには共通の理想があった。それは科學者になることだ。陳景潤の當時の影響がここに見て取れる。
07年11月22日、「夢の北京」をテーマに鄧麗君の代表作を歌うコンサートが北京展覧館劇場で開催。中國語の歌謡界で、彼女は伝奇的な人物であり、その歌聲は一世代に大きな影響を與えた。
いま一人は臺灣の鄧麗君(テレサ?テン)である。彼女の切なく歌う曲は長年にわたり革命歌曲に浸されてきた大陸の若者にとっては、絶対的に不可思議なまったく新たな體験だった。「愛のくらし」に「小さな町の物語」「月は私の心を」……。こうした永遠に人の情感に訴えるだけの歌は、その世代の若者の個人的な生活を追い求める內(nèi)なる情緒と実によくマッチした。彼らは広く彼女の歌を伝え歌うだけにとどまらず、 彼女の髪型や鮮やかな服裝を追い求めていった。だが同時に、鄧麗君の歌もいわゆる権威により非難される。亡くなって十數(shù)年になるが、彼女は生涯、大陸でコンサートを開いたことはない。それでも彼女はいまでも、多くの大陸のファンから心に永遠に殘る「偶像」として見られている。
「チャイナネット」2008年4月15日 |
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