1972年10月、日本の神戸市の宮崎辰雄市長が訪問団を率いて中國を訪れた。周恩來総理との會見で、宮崎市長は中國のいずれかの都市との友好都市提攜を希望していることを表明し、周恩來総理の仲立ちで、神戸市は天津市と友好都市の良縁を結ぶことになる。1973年6月24日、宮崎辰雄市長は天津市を訪問し、天津市長とともに友好都市提攜の取り決めに調印した。中日両國で最初の友好都市の誕生である。
これに続いて、1974年4月18日には日本の大阪市と中國の上海市が、1978年12月21日には日本の名古屋市と中國の南京市が、それぞれ友好都市の提攜を結んだ。2005年4月までのデータによると、中日両國間の友好都市は226組に上っている。友好都市提攜の過程とその後の交流は、両國の都市に多くのエピソードを生んだ。中國の昆明市と日本の藤沢市との友好都市提攜もその一例である。
1935年7月17日、中國の音楽家、聶耳氏は藤沢市付近の海岸で海水浴中に一命を落とした。1949年10月、中華人民共和國建國後、聶耳氏が作曲した『義勇軍行進曲』は新中國の國歌となる。藤沢市の葉山峻市長の母親は、英語版の『人民中國』に掲載された新中國の國歌作曲者を紹介した記事を読み、自分たちが敬愛する「不帰の人」、聶耳氏こそがその作曲者であったことを藤沢市民に伝えた。聶耳氏を追悼し、日中友好事業を推進するため、藤沢市の人々は聶耳氏の記念碑の建立を発起する。1954年11月1日、記念碑は落成の日を迎え、訪日中であった中國紅十字會代表団の李徳全団長がこの落成式に招かれ列席した。1956年、臺風による高波のため、聶耳記念碑は海に流されたが、藤沢市民は再度記念碑保存會を組織して、二度目の募金活動を展開し、最初のものよりも立派な記念碑を再建した。
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