文=奧井禮喜
日経新聞社説(3/18)、いわく「《春闘》と決別し賃金改革の議論を深めよ」。経営者の新聞を自認(rèn)する経済新聞だから、「経営環(huán)境の変化から取り殘される」という危機(jī)感は理解する。ただし、「企業(yè)の成長を促す賃金制度づくりを急ぐとき」という主張は、言語明快意味不明でしかない。
いま賃金制度の具合が悪く、そのために企業(yè)経営が思わしくないのであろうか。「大半は定昇を守れたが、実質(zhì)的な賃金引下げを阻止できたに過ぎない」と書かれると、働く人にとっての賃金の意味がわかっていないようだ。
賃金は、経営上はコストである。働く人にとっては生活の糧である。資本主義の成立要件である利潤と賃金はまさしく対立関係にある。組合からすれば実質(zhì)的賃金引下げ阻止だけで満足しているものではない。
にもかかわらず、組合は、まさに社説が書くように経営環(huán)境の変化を慮り、極論すれば、組合員の不満を考えつつも、実質(zhì)賃金維持程度で鉾を収めようとするのである。
さらに、あれもこれも年功賃金のせいでうまくいかないという論點(diǎn)は事実認(rèn)識に大きな間違いを犯している。いわゆる馬齢給のごとき賃金制度はとっくになくなっている。(賃金制度のあるような企業(yè)では)
「役割や成果に応じた処遇に改める余地は大きい」とも書くが、まことに性懲りもない。1990年代半ばから日経新聞は《成果主義》の提燈持ちをして、おおいに喧伝これ努めた。いまの賃金制度はまさしく成果主義賃金制度ではないか。
バブルが弾けててんやわんやの企業(yè)社會において、経営はいずこも成果主義賃金へと旗を振った。しかし、バブルが弾けたことが、年功賃金(すでに當(dāng)時もガリガリの年功賃金は少なかった)に原因していたわけではない。まさに経営センスの問題であった。