今回公開された米英の戦爭(zhēng)捕虜に関する3點(diǎn)の資料は関東憲兵隊(duì)の資料の中から見つかったものである。主に、1944年に日本軍が打ち落とした米軍のB29爆撃機(jī)の一部の戦爭(zhēng)捕虜のリスト、尋問記録、米英捕虜に対する管理の狀況がわかる資料で、第二次世界大戦時(shí)の日本による米英の戦爭(zhēng)捕虜の虐待を研究するうえで重要な資料となる。1944年の『奉天地區(qū)の労働動(dòng)態(tài)観察』は、米英の捕虜、日本人、中國(guó)人労働者の作業(yè)効率の比較を記載しており、満州工作機(jī)械株式會(huì)社が使用した米英捕虜約500人は効率が悪いと指摘している。
吉林省檔案館の李秀娟研究員によると、1942年11月から1945年に日本が無條件降伏するまで、日本軍は太平洋戦爭(zhēng)の捕虜だった米英などの國(guó)の捕虜をフィリピンから船に乗せ、朝鮮の釜山港を通って遼寧省瀋陽市鉄西區(qū)內(nèi)の戦爭(zhēng)捕虜施設(shè)に運(yùn)んだ。この施設(shè)は「奉天捕虜収容所」という名前で、米國(guó)、イギリス、オーストラリアなどの捕虜が入れられた。最も多いときで2000人以上、通常1500人前後が収容され、その多くが米軍の戦爭(zhēng)捕虜だった。収容されている數(shù)年間、捕虜は奉天の満州工作機(jī)械株式會(huì)社や満州帆布株式會(huì)社などで働かされ、非人道的な虐待を受けた。概算統(tǒng)計(jì)によると、約240人の捕虜が様々な原因によって収容所で死亡した。
「中國(guó)網(wǎng)日本語版(チャイナネット)」2014年4月28日