釣魚島から3つの遺産を手にした米國
米國に當(dāng)初、その意があったかどうかは別にして、米國は釣魚島から十分重みのある3つの遺産を手にした。
1つは、中國が海洋へと進(jìn)む過程において、釣魚島は米國の重要な戦略的障壁となった。
2つ目は、70年代初め、米國は琉球の行政主権を日本に移管した際、釣魚島諸島の管轄権も日本に移譲した。これが日本の上述した島嶼における役割を呼び起こし、また中日関係に1個の地雷が埋められたことで、中日は米國を超える?yún)f(xié)力関係を構(gòu)築するのが非常に難しくなった。この2件が、米國が目にしたいと願っていたことであり、すでに目にした事実でもある。
3つ目の遺産は、米國が見たいと願っていなかったことだ。即ち、釣魚島は中日関係を悪化させたものの、むしろ臺灣海峽両岸の関係の発展が促された。とくに両岸が「経済協(xié)力枠組み協(xié)定」(ECFA)を締結(jié)した際、米國が最も懸念したのは、両岸が今後、政治や軍事面で良性な影響を及ぼし合い、釣魚島が実質(zhì)的に両岸に敷設(shè)された連帯の場になるのではないか、ということだった。
そればかりでなく、「保釣運動」はさらに両岸、とくに民間の米國の百年にわたる中國侵略政策に対する不満と批判を呼び起こしたが、これも米國人の予想が及ばなかったことだ。
中日は米國の駒になってはならない