全土を解放、新中國が成立
抗日戦爭の勝利後、中國人民は平和な生活を望んでいた。45年8月28日、毛沢東は延安から重慶に飛び、中國共産黨が平和を求める誠実な願いを抱き、國民黨と連合政府樹立の交渉を展開した。中國共産黨が大きく譲歩した後、10月10日、國共雙方は「雙十協(xié)定」を締結し、各民主黨派や社會の名望家らが出席し、平和的な建國案を議論する政治協(xié)商會議を開催することで合意した。
しかし、専制獨裁をたくらむ蔣介石が中國共産黨を容認するはずがなかった。46年6月、蔣介石は橫暴にも「雙十協(xié)定」を破棄し、國民黨軍に解放區(qū)への大挙進攻を命じ、全面的な內戦を引き起こした。このとき國民黨は、中國共産黨の127萬人の3倍以上の約430萬人の兵力を擁し、しかもほぼ全ての大都市を支配し、その面積は全國の約70%を占めていた。雙方には圧倒的な実力差があったが、人心の離反はすでに戦爭の勝敗を決める重要な鍵となっていた。
國民黨の支配地域では、同黨の支配層を代表とする官僚ブルジョア階級が思いのままに獨占、暴利をむさぼっていた。役人は汚職で腐敗し、軍隊は橫暴を働き、政府は重稅を搾り取り紙幣を亂発したため、ハイパーインフレを招き、人々は塗炭の苦しみを味わった。現(xiàn)代中國畫の巨匠?斉白石はかつてこう言った。「お焼き1個が數(shù)十萬元もした。心血を注いで絵を1枚描いても、お焼きを何個も買えなかった」。記録では、46年だけでも北平で6500人余りが飢えと寒さで死亡した。同じ時期、解放區(qū)で中國共産黨は、「誠心誠意人民に奉仕する」ことを黨規(guī)約に盛り込み、黨員の行動指針とした。
46年、黨中央は解放區(qū)で土地改革を行った。農民は土地を手に入れただけでなく、解放され、解放區(qū)の主人公となった。今年88歳の日本人、砂原恵さんは、中國共産黨が自分の人生を変えたことを今も忘れられない。戦後、家族と共に中國に殘留した砂原さんは、小作農として生計を立てていた。
土地改革で砂原さん一家は優(yōu)先的に良田を分け與えられた。そうして地主から手間賃の上前をはねられ、地主家族の殘飯で腹を満たす生活から抜け出した。若い砂原さんは他の村民と同じように、中國共産黨に付いていけば良い暮らしが送れると知った。黨への感謝の思いを抱いて、砂原さんは人民解放軍に加わり、國民黨の支配を覆す解放戦爭に身を投じた。
中國共産黨の正しい指導と人民大衆(zhòng)の力強い支持の下、解放軍は46年から49年にかけて國民黨軍の主力を完全に撃ち払った。そして49年4月22日、南京の総統(tǒng)府に革命の勝利を象徴する紅旗が掲げられ、國民黨の反動的な支配は終焉を告げた。
49年9月、中國人民政治協(xié)商會議第1期全體會議が北平で開かれた。中國共産黨や各民主黨派、無黨派民主人士、人民団體、海外の華僑など各方面の代表からなる662人が一堂に會し、新中國成立に関することについて議論した。會議は「中國人民政治協(xié)商會議共同綱領」を採択し、中華人民共和國は労働者階級が指導し、労農同盟を基礎とし、民主的諸階級と國內諸民族を団結させる人民民主主義獨裁の國家であると規(guī)定した。同會議で、毛沢東は世界に向けて「人類全體の4分の1の人數(shù)を占める中國人は、ここに立ち上がった」と厳かに宣言した。
1949年10月1日、中華人民共和國の開國式典が北京の天安門広場で行われた。紅旗がはためき熱狂に包まれた広場に、空高く「中華人民共和國萬歳」の歓聲が響き渡る中、新しい中國は光り輝く朝日のように世界の東方から昇った。(李家祺=文)
人民中國インターネット版 2021年7月12日