新しく1と1をあわせて2よりも大きな効果を目指しましょう、というロジックではなく、雙方の1を「獨(dú)立的に」1以上にする可能性を探るために一応交流だけは続けてみましょう、というロジックです。
ここには、コラボレーションによる規(guī)模の経済性、範(fàn)囲の経済性、産業(yè)価値連鎖、外交フレームワークでの國(guó)際的イニシアチブという議論ではなく、あくまでも、日本と中國(guó)は別々の道をしばらくは歩むが、情報(bào)だけでも交流することでそれぞれにとって獨(dú)立的に(別々に)メリットがあるだろう、という考え方が発生しているわけなんですね。
この數(shù)カ月の日中交流に攜わるみなさんの「話題?テーマ?場(chǎng)の雰囲気」の変化であります、くどくどと説明してしまいましたが、なんとなーく僕はこれを多くの有識(shí)者、企業(yè)家のみなさんの話から感じ取ったものです。
象徴的なフレーズとしては、「中國(guó)は日本から學(xué)ぶことが多い」というものです。例えばこれらには、ちょうどいま北京などが空気汚染に苦しんでいますが、産業(yè)発展時(shí)に體験する環(huán)境汚染から如何に日本がグリーン?クリーンに舵取りをしてきたか、中國(guó)がいままさに入り込んでしまっているかもしれない不動(dòng)産バブルを如何に日本が體験しそして失敗してきたか、人口ピラミッドから考えてこれから中國(guó)も必ず迎えるであろう超高齢者社會(huì)を現(xiàn)実に今體験している日本がどのような問(wèn)題を抱えているのか???、などといったことが含まれます。
確かに、簡(jiǎn)単に考えれば、いくつかの社會(huì)問(wèn)題は日本が體験し、中國(guó)が未體験でありますので「中國(guó)は日本から學(xué)ぶことが多い」というのはなんとなく正しそうなロジックではありますが、「果たして本當(dāng)にそうなのか?」と最近僕は疑問(wèn)に感じています。
國(guó)家の規(guī)模、人口の規(guī)模、數(shù)十年の各種技術(shù)の差異、世界情勢(shì)の変化、文化的特色、教育度の差異などなど、多くの差異が當(dāng)時(shí)の日本と今の中國(guó)の間にあるわけです。環(huán)境汚染、バブル経済、高齢者福祉社會(huì)などの問(wèn)題について日本の體験談が中國(guó)にとっても勉強(qiáng)材料になるというのは稚拙な気がしてなりません。
中川コージのブログ『情熱的な羅針盤(pán)』